- Mari Okazaki
- 22 nov. 2024
- 7 min de lecture
Dernière mise à jour : 3 déc. 2024

朝ごはんの際に、子のトーストに、フランスから保冷バッグに入れて持ってきたエシレバターを塗っていたら、亡くなった祖母のことを思い出した。明治生まれの祖母も、バターが大好きだった。しかも九州の人だったから、好き嫌いがはっきりしていたので、「私はマーガリンでなく、絶対にバター」という人だった。
この祖母は、高校を出て 7 年間働いた後、見合い結婚で、会ったこともない私の祖父と、周囲に「教員だから、きっといい人に違いない」と言われて一人で結婚式を挙げて(!)、なんと当時、祖父が働いていた朝鮮、今の北朝鮮北東部・清津(チョンジン)の羅南へ渡った。祖母は私が世界で最も尊敬する人の一人だ。
私は幼い頃から、祖母の家で夏休みを過ごす度に、祖母らしい九州のアクセントで、時折「"ちょうせん"のキムチはね...」や「"けいじょう"がね...」といった単語が聞こえてくることがあり、幼心に『何の話をしているんだろう』とよく疑問に思ったものだった。もしかしたら、「ソウル」という都市名を知るより、「京城」という名を耳にしたことの方が多かったかもしれない。
祖母の言う「ちょうせん」が「朝鮮」のことだと分かったのは、かなり後になってからのことだった。私は祖母が、だいたい 1935 年頃から終戦までの 10 年間、今の北朝鮮、しかし当時、朝鮮はまだひとつの国だった... で、10 年もの月日を過ごしていたなんて、知るよしもなかった。祖母は、昔話をしていたのだった。
戦局が激しくなってきた際、北で英語教師として働いていた祖父は、なんとミャンマーへ出兵していたらしい。その間、祖母には、幼くして亡くなった長女の後に、母にとって上の兄三人がいて、一番上の兄(私にとっては叔父)が、当時 7 才。
日本の敗戦が色濃くなると、軍都であった羅南の日本人コミュニティーでは情報が早かったそうで、「ソ連が攻めてくる!早く 38 度線まで南下しろ!」と叫ばれ、大事なものや思い入れのあった着物... すべてその辺りの木の下に埋めて、三人の子を連れて、祖母は一人で引き揚げなければならなかった。
記録によると、列車でソウルまで行ったらしい。それから日本人学校(南大門小学校)が避難所だったので、二、三週間くらいいたと思う、と書いてある。ソウルにて、8 月 15 日を迎える。
ソウルまでの道中、一体どんな苦労があったのかは想像にかたくない。一番上の叔父はけっこう大きかったこともあって、終戦後、平和な世の中がやって来て、日本人が韓国へ旅行へ行くようになっても、絶対に京城(ソウル)にだけは二度と行かない、それはやはり、嫌な思い出が蘇るからで、断固拒否していた... という話をよく聞いた。一度は人混みの中で迷子になって、離れ離れになりかけたそうだし、「自分も一歩間違えれば"離散家族"になっていた」。
祖母はその後も列車で、なんとか釜山の港までたどり着くと、山口県仙崎港行きの船を待ったらしい。運良く出航したと思われた船でも、道中、攻撃に遭ったものもあっただろう。まだ朝鮮半島にいた頃、祖母は、青森出身の知り合いの女性に、自分の着物をもんぺにして渡し、「早く青森に帰った方がいい」と勧めたそうで、その家族からは、平成になってからもずっとお礼に、毎年立派なりんごが一箱届いた。
戦後に祖父母が移り住んだ、島根県西部の田舎町で、「あおもり りんご」と書かれた段ボールを目にするのは珍しいことだったので、私は子どもの頃に、「どうしてこんな遠くから?青森?」と聞いたことがある。母は、「昔、ちょっとご縁があってね...」と答えてくれたように思う。
大変な苦労をして日本へ引き揚げてきても、世間からはなかなか良い目で見られなかったそうだ。それは日本が戦争に負けて、日本にいる日本人でさえまだ食料がなく、十分に食べられていなかった中で、外国から帰ってきた日本人たちまで食べさせることなど、難しかったからだろう。
祖母は晩年、「(故郷の)熊本で、泣きながら麦踏みをしてね...」と語ったらしい。波乱と困難に満ちた、時代に翻弄された祖母の人生。晩年だけでもきっと幸せだったと思いたい。少なくとも、私と妹は、そんな祖母が無事日本に引き揚げて、その後さらに(私の母も含めた)三人もの子どもを生み、そのおかげで昭和の終わりに私と妹がこの世に生まれたのだから... 感謝しても仕切れないほど、命のリレーという言葉の重みを感じている。本当に、おばぁちゃんのおかげなのだ。
戦後、「引き揚げの苦労を、本に書いてみたら」と人から勧められても、祖母は毅然と、「日本人が他の国へ出かけて住んでいたのだから、占領された朝鮮の人の気持ちを思うと、私の苦労なんかなんでもないし、書けない」と言って断っていた。
とっても明るくて、賢く、食い入るように毎朝新聞を読み、フルーツが大好きで、時々は日本酒を嗜み、「私、死ぬまでに一回は"ワイン"というものを飲んでみたいの」と言ったり、恋愛の相談をしたりと、私にとって祖母は、年の離れた友達のような... 大好きな存在であった。
だからその祖母が、98 歳でついにこの世を去った時、そのショックはとてつもなく大きく、まるで心がしばらく空っぽになってしまい、仕事も手を付かなかったくらいだった。今でもよく覚えているし、毎日おばぁちゃんのことを思う。「あなた達の旦那さまに会いたい」と、私と妹に何度も伝えてくれたおばぁちゃん。あと半年遅ければ、妹の選んだ人に会えたのだけど... こればっかりは仕方がない。

「朝鮮の人はすごく親切でね、市場なんかでも、お金が足りないと、「いいのよいいのよ、奥さん、お代はまだ今度で」って言ってね」や「朝鮮のキムチが美味しくてね」などとよく語っていた。祖母が言うこちらの人の優しさを、私も連日体験し、多分「カムサハムニダ」だけなら毎日 50 回は言っているだろう。
このエピソードを夫にすると、超現実的で超絶理系の夫は、私の話に共感することなく、「そりゃ宗主国の日本から来た日本人には親切にするしかないだろ... アフリカでも、白人が「アフリカの人たちって本当に親切」って口にするのはいかにも植民地主義者の奢りに聞こえるから、タブーだったよ」とか言っている。
そういう話をしたいんじゃないのに...!!思わぬ角度から思わぬコメントが返ってきて、ぐぅの寝も出せない。負けるな、私。若い頃に比べて、いろいろ経験したから、性善説を信じる節は少し減ってきたけど、それでも祖母は、決してそんな気持ちで口にしたんじゃないと思うのだ。夫め...

祖母の死から約 15 年が経ち、2024 年になった今、私がこうして朝鮮半島へ住むことになったとは、なんて数奇な運命だろう。
そもそも、こちらの家系は、なぜか昔から外国と縁が深い。兄弟の中で 5 番目の叔母なんて、もう 50 年以上カリフォルニアで暮らしているし、日本育ちであれ韓国の人と結婚している従姉妹もいる。そして私と妹は、20 代中盤からはずっとフランスにいた...。
家には母による手書きのメモがあるだけだし、祖父母が住んでいた場所を訪れることは到底叶わないけれど、私は目撃したいのだ。祖母が体験した、戦火の前の、いくらばかりかはきっと平穏だった日々の暮らしや、人びとの優しさ。そんな、もう二度と目にできない、幻のようなものがまだ残っているとしたら、感じてみたいと思う。
「もしトラ」が「またトラ」という現実の悪夢になり、ウクライナで起こっていることが、今後我々をどんな世界へ向かわせるのか、緊張が漂う... 世界中で起きているすべての争いには、一刻も早い停戦を、歴史が大きくうごめかないことを、願うばかりだ。

昨日、パリでは珍しく記録的な大雪が観察された。しかも妹いわく、同じ日に交通機関のストまであったらしい。あいにくこちらは珍しくない。妹や友人から送られてくる写真や、ソーシャルメディアで目にする雪景色のパリを見ると、『あぁ、こないだまで見慣れていた景色が... 今ではこんなに遠い。遠くまで来てしまった』と、複雑な気持ちになる。フランスに郷愁の念を感じる日が来るなんて。自分でも信じられない。しかしこれから数年間はここ韓国で、言葉も覚えつつ、新たに生活していかなければならない。
子にはやはり、平和で優しい世界を目にして欲しい。祖父母のような、国や、歴史に翻弄されて、青春時代さえまともに生きられなかった世代のことを思う。そんなことを考えながら、夕方になると、急ぎ足で学校へ子を迎えに行く。今のところ、至近距離で見えている世界は平和そのものだ。だがしかし、本当にそうだろうか?この建物はすべてはりぼてで出来ていて、そのすぐ裏の世界では、今でも戦いが止まない... それが現実に近い。
日々の、当たり前のことが、小さくて確実な幸せを作り出している。子の、小さくてあたたかい手を繋ぐ度に思う。なかなか、忘れがちだけどね。